馬、生きた原則

五所純子(文筆家)

 馬の映画を見た。冒頭近く、数体の馬の死骸が地に横たわっている静止画のシークエンスには名付けようのない心のざわつきを覚えた。目は人間の遺体と見まごうていた。頭はそれを否定しようとしていた。視覚と思考が剥離する感覚のなかで、あたしは馬と人間の差異を検分していた。馬には毛が生えている。しかし短い毛がはりついた皮膚は着衣を乱して死んでいった人のようだ。馬は四足歩行である。しかし力を失って投げ出された四足は二本の手足とかわりない。馬だから小屋や路上や荒れ地で死んでいるのだ。いや人間はどこでだって死ねる。否定と反論をくりかえして馬を人間と同一視しそうになる自分に困惑した。なにを安易な感情移入でも始める気か。正気を保てよと自分をおさえた。ときおり響く馬のいななきは慕わしい叱咤のようでもあり、誘惑の声にも聞こえた。たぶん引き裂かれながら見惚れていたのだ、馬に。

 死骸は並んでいた。無惨に見えた。一体ならばさほど無惨には感じなかったかもしれない。一体の死骸には彼や彼女における個別の生というストーリーが掻き立てられる。しかし数体の遺骸はストーリーを拒んで見る者の導入を撥ねる風景になる。この拒絶の跡地に、馬は、人は、あたしは、今在るのだと思った。

 そこで焦点を合わされていくのがミラーズクエストだ。もとは未勝の競走馬。引退して福島県南相馬市に移され、食肉用の馬となった。そして東京電力福島第一原子力発電所の事故が起きた。まもなく原発半径二〇キロ圏内の住民へ避難指示が発令された。飼育していた馬たちにあらんかぎりの餌をあたえて馬主はその地を後にした。二週間後、戻ってきた馬主の前にあったのは餓死した七頭と生き残った三一頭の姿だった。そのなかにペニスを大きく腫れ上がらせたミラーズクエストがいた。二週間の間に細菌感染したようだった。原発から半径二〇キロ圏内は国から立ち入りを制限され、生き残った馬たちにたいして県から殺処分要請がくだる。しかし馬主は聞き入れない。その後、南相馬市のはたらきかけによって二〇キロ圏内の馬たちを避難させる特例が設けられることとなり、ミラーズクエストたちは市の管理下で避難所生活をおくることとなった。

 これはミラーズクエストの延命劇なのかもしれない。南相馬市へきた時点では食肉として出荷されるときを命の起源としてもつ馬だった。津波に飲まれたが生き残った。一度目の延命。原発事故によって殺せとの命令がくだるが馬主が聞き入れない。二度目の延命。放射線汚染のレッテルを貼られ出荷が禁止される。三度目の延命。馬の延命にたいして安堵するような気持ちが起こるが、いったい人間の都合で伸びたり縮んだりする起源つきの命、その起源すら失って宙ぶらりんの存在となったミラーズクエストとは一体何なのだろうかとたじろく。馬たちを延命させるために馬主は窮している。馬に補償は下りない。経済状況は厳しい。誰かが買い取ってくれればと馬主は呟く。買い手はいない。馬主の窮乏は続く。しかし馬主は馬を殺さない。なぜ、とあたしは思う。なぜミラーズクエストは生きているのかという疑問が急に突き上げる。そしてその疑問自体に恐ろしさをもよおす。すると答えるように馬主は語る、「生きているものはただ殺すわけにはいかない」と。

 目の前の命を殺さない。それが人間の原則なのではないか。きわめて複雑な状況のなかでこの原則に突き動かされている人がいる。それによって生かされている馬がいる。そのことを『祭の馬』は撮ろうとしたのではないか。ミラーズクエストとは生きた原則の姿なのではないだろうか。

 生きた原則はしかし疾しさを背負わされる。二〇キロ圏内から移送された馬たちを避難先で世話をする女性が語る。馬たちの居場所や写真を公にしてはいけないと行政から禁じられているのだと。生かされたがしかし大きな力によって隠される。馬たちはまさにタブーの存在となったのだ。疾しさはより周縁に追いやられて取り憑く。馬たちが死んでしまったことについて自分のせいみたいに思っていると馬主は力なく語った。まさか馬主に責がないのは明らかだ。なぜ疾しさは馬たちにより近い彼ら彼女たちに取り憑いてしまうのか。なぜ馬の存在自体が疾しいものになってしまうのか。この憤りをどこにぶつければよいのか。それは単純には読み解けない。簡単には解体できない。なぜなら「生きているものはただ殺すわけにはいかない」が原則だからだ。大いなる矛盾、それはミラーズクエストのことであり生き残った原子力発電所のことでもある。

 ミラーズクエストら馬たちは相馬野馬追という土地の神事に駆り出された。この神事に奉納された馬たちにはかつて焼印が押されていた。聖なるものへ刻まれていた徴がミラーズクエストらに押されることはなかった。かわりに押された焼印は食用として出回ることを防ぐために原発二〇キロ圏内にいた馬にだけあたえられた徴だった。聖と俗、清浄と不浄、それはどのように区別できるのだろう。馬たちはそれらを一身に引き受けながら何度も反転させて見せる。

 ぶよぶよと肥大して垂れ下がるペニスを逆さにしたら原発雲だった。このイメージは『祭の馬』を貫いているものだろう。これは連想である。因果関係はない。しかし馬のペニスと原発事故には相関関係がある。この関係は容易にひもとけるものでも解決をあたえられるわけでもなく、いくつもの矛盾をはさみながらいなないている。生きたものはただ殺すわけにいかない。



文筆家。文芸、映画、音楽などカルチャー全般に関する執筆活動。著書に「スカトロジー・フルーツ」(天然文庫)などがある。
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